山下 源太郎 (1863-1931)の肖像
山下 源太郎の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
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山下 源太郎

やました げんたろう

Yamashita Gentaro

連合艦隊司令長官・軍令部長を歴任した海軍大将。米沢藩出身、海軍兵学校 5 期、日露戦争では第一艦隊参謀として日本海海戦に参加した。

生没年
出身地
山形県米沢市
死没地
東京
時代
明治・大正
役職
海軍大将
爵位
男爵
出身校
海軍兵学校 / 海軍大学校
区画
1種イ2号1側(立山墓地)
タグ
海軍大将 / 連合艦隊司令長官 / 軍令部長 / 日露戦争

米沢から海軍中枢へ — 連合艦隊司令長官・軍令部長

山下源太郎は、米沢藩出身の海軍大将。連合艦隊司令長官(1915-1916)・軍令部長(1920-1925)を歴任し、第一次世界大戦から大正末期にかけての海軍中枢を支えた人物である。文久 3 年(1863 年)米沢藩士・山下信庸の長男として生まれ、海軍兵学校第 5 期(1884 年卒業)から海軍大学校へ進み、海軍士官のエリートコースを歩んだ。

日露戦争(1904-05 年)では第一艦隊参謀として、東郷平八郎・加藤友三郎・秋山真之らと共に日本海海戦の作戦立案・遂行に参加。戦後は海軍兵学校長・連合艦隊参謀長を経て、大正 4 年(1915 年)に連合艦隊司令長官に就任した。第一次世界大戦中の海軍を指揮し、地中海派遣艦隊の編成・南洋諸島の占領作戦の指揮など、日本海軍の初の本格的海外派遣を担当した。

大正 9 年(1920 年)から大正 14 年(1925 年)まで軍令部長(現在の海軍参謀総長に相当)を 5 年間務め、ワシントン軍縮条約(1922 年)体制下の海軍再編を内側から支えた。元帥府には列せられなかったが、海軍中枢で長く実務を担った「裏方の重鎮」として記憶される。

米沢藩士族から海軍兵学校へ

文久 3 年(1863 年)8 月 12 日、米沢藩士・山下信庸の長男として米沢城下に生まれる。米沢藩は上杉鷹山の藩政改革で知られる質実剛健な藩風で、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟側として新政府軍と戦い敗れた。維新後の米沢からは多くの優秀な人材が海軍に進んだ — 山下源太郎もその一人である。

明治 14 年(1881 年)、海軍兵学校に入学(第 5 期)。同期には日露戦争で活躍する多くの士官がいた。明治 17 年(1884 年)に卒業、少尉候補生として海軍士官の道を歩み始める。海軍大学校第 3 期(1894 年卒業)も恩賜の軍刀組として卒業し、エリート海軍士官の地位を確立した。

日露戦争 — 第一艦隊参謀として日本海海戦へ

明治 37 年(1904 年)2 月の日露開戦時、山下は第一艦隊参謀(後に連合艦隊参謀)として東郷平八郎連合艦隊司令長官の幕僚に加わる。連合艦隊参謀の中心には秋山真之・佐藤鉄太郎ら著名な作戦家がいたが、山下は艦隊運用・通信・補給など実務面で重要な役割を果たした。

明治 38 年(1905 年)5 月 27-28 日の日本海海戦では、第一艦隊参謀として作戦遂行に参加。バルチック艦隊との決戦に立ち会った経験は、後の艦隊運用思想に大きな影響を与えた。戦後、海軍少将・海軍大学校長・連合艦隊参謀長を歴任しながら、日露戦争の戦訓を制度化する作業に従事した。

連合艦隊司令長官・第一次世界大戦の海軍指揮

大正 4 年(1915 年)、連合艦隊司令長官に就任。第一次世界大戦下の海軍を指揮する重要な時期だった。日本は日英同盟により連合国側で参戦し、南洋諸島(マリアナ・カロリン・マーシャル諸島)の占領、地中海への第二特務艦隊派遣など、初の本格的海外派遣を実行した。

地中海派遣艦隊(司令官・佐藤皐蔵少将)は、マルタ島を基地として連合国輸送船団の護衛任務に従事。日本海軍が世界の海洋で戦った最初の体系的活動として、後のワシントン体制での日本の海軍国としての地位を支える実績となった。山下はこれらの作戦の連合艦隊側の責任者として、海軍の戦略的位置づけを変える役割を担った。

軍令部長 5 年 — ワシントン体制下の海軍再編

大正 9 年(1920 年)4 月から大正 14 年(1925 年)4 月まで、軍令部長を 5 年にわたって務めた。在任中の最大の出来事はワシントン海軍軍縮条約(1922 年)の成立である。条約は日本海軍の主力艦保有比率を米英の 60% に制限し、日本海軍の戦略を大きく転換させた。

軍令部長として山下は、加藤友三郎海相(後に首相)と協力して条約体制への移行を内側から支え、削減対象艦の処理、潜水艦・航空兵力への重点移行、海軍人事の整理など、痛みを伴う再編を実行した。条約派と艦隊派の対立が萌芽する時期に、組織を冷静に運営した手腕は高く評価される。

大正 14 年(1925 年)4 月に軍令部長を退任、予備役編入。男爵に叙されたのもこの時期で、海軍の長年の功績に対する栄誉だった。

青山霊園に眠る

山下源太郎の墓は、青山霊園 1種イ2号1側(立山墓地)。昭和 6 年(1931 年)2 月 18 日、東京で死去。享年 67。米沢藩士族の家に生まれ、明治海軍の創成期から大正期の海軍再編までを実務面で支えた海軍大将の墓所が、立山墓地の一区画で静かに眠っている。

郷里・山形県米沢市には山下家代々の墓もあり、米沢の地に源太郎の足跡を伝える碑も残されている。米沢が生んだ近代日本海軍の中枢人物として、地元では今も語り継がれている。

墓参り写真

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