八代 六郎
やしろ ろくろう
Yashiro Rokuro
海軍大将・海軍大臣。日露戦争では浅間艦長として仁川沖海戦・日本海海戦に参加、シーメンス事件後の大隈重信内閣で海相に就任し海軍人事を一新した尾張犬山出身の海軍軍人。
『坂の上の雲』の八代艦長 — 仁川沖の尺八
八代六郎は、明治・大正の海軍軍人で、日露戦争では装甲巡洋艦 浅間艦長として開戦劈頭の仁川沖海戦に参加した。司馬遼太郎『坂の上の雲』では、開戦前夜の緊張の中で艦内で尺八を吹いて部下を鎮静化させたエピソードが描かれ、豪快な人柄で知られる海軍軍人の代表像として印象に残る人物である。
シーメンス事件(1914)後の大隈重信内閣で海軍大臣に就任(1914-1915)、前任の山本権兵衛・斎藤実ら従来の薩摩系海軍閥を予備役に編入する大胆な人事を断行。海軍省の信頼回復のために組織を刷新した「シーメンス事件の収拾役」である。秋山真之を海軍次官・軍務局長に推挙したことでも知られる。
尾張犬山の大庄屋から海軍兵学校へ
万延元年(1860 年)1 月 3 日(陽暦 1 月 25 日)、尾張国丹羽郡楽田村(現・愛知県犬山市)の大庄屋 松山庄七の三男として生まれる。長じて八代家を継ぎ八代六郎を名乗った。
明治 10 年代、海軍兵学校に入学。海軍兵学校 8 期生として明治 14 年(1881 年)に卒業し、海軍士官の道に入った。
明治期はロシア駐在武官などを経験し、ロシアの海軍事情に通じた数少ない日本海軍軍人として成長した。
仁川沖海戦と日露戦争
明治 37 年(1904 年)2 月、日露戦争開戦。八代は装甲巡洋艦 浅間の艦長として、瓜生外吉司令官率いる第二艦隊第四戦隊の一員として朝鮮半島の仁川(現・韓国仁川広域市)に派遣された。
仁川沖にはロシア巡洋艦 ワリャーグおよび砲艦 コレーツが停泊しており、開戦劈頭の海戦が予測される緊張状態が続いた。司馬遼太郎『坂の上の雲』には、開戦前夜の艦内で八代艦長が尺八を吹いて部下たちの緊張をほぐした逸話が描かれている。
2 月 9 日の仁川沖海戦では、瓜生戦隊の集中砲火の前にワリャーグ・コレーツは大破。両艦は自沈した。日露戦争の「最初の砲声」となるこの海戦に、八代の浅間は中核艦として参加した。
その後、八代は連合艦隊の一翼として日本海海戦(明治 38 年/1905 年 5 月 27-28 日)にも参加。被弾時に冷静を装い「前しか見てなかった」と発言したというエピソードも残る。
シーメンス事件と海軍刷新 — 海軍大臣として
大正 3 年(1914 年)1 月、ドイツのシーメンス社からの賄賂をめぐる海軍高官の収賄疑惑(シーメンス事件)が暴露された。第一次山本権兵衛内閣は責任を取って総辞職、海軍に対する世論の信頼は地に堕ちた。
同年 4 月、大隈重信内閣が成立。海軍大臣に就任したのが八代六郎である(1914 年 4 月 16 日 - 1915 年 8 月 10 日在任)。
八代は山本権兵衛・斎藤実・財部彪ら従来の薩摩系海軍閥の中核を予備役に編入する大胆な人事を断行した。「海軍を政府のコントロール下に置いて信頼回復に努める」という方針で、薩摩閥の長期支配にメスを入れた。
また、秋山真之(後の連合艦隊司令長官)を海軍次官・軍務局長に推挙したことでも知られる。『坂の上の雲』の主人公の一人であり、日露戦争の作戦立案で実績のあった秋山を、戦後 10 年を経て海軍中枢に引き上げた人事である。
「シーメンス事件後の海軍刷新人事」 — 八代海相の最大の功績はこの組織再編にあり、後年の海軍にも長く影響を残した。
男爵叙爵、晩年
大正 4 年(1915 年)に海軍大臣を退任。男爵に叙爵される。退任後は予備役として後進指導に当たり、海軍軍人として静かな晩年を過ごした。
昭和 5 年(1930 年)6 月 30 日、東京で逝去。享年 71。日露戦争から 25 年、シーメンス事件から 16 年が経っていた。
青山霊園に眠る
八代六郎の墓は、青山霊園 1種ロ1-14号2側6番。妻と並ぶ墓所として知られる。同区画近辺には、シーメンス事件で対立した先輩 山本権兵衛・八代の人事で予備役編入された 財部彪 たちが眠っており、シーメンス事件をめぐる「対立する両者」が同じ霊園で並んでいる構図となっている。
司馬遼太郎『坂の上の雲』の登場人物の多くも青山霊園に眠り、八代六郎の墓もまた「明治の海軍」を象徴する一つの墓所となっている。






