伊集院 五郎 (1852-1921)の肖像
伊集院 五郎の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
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伊集院 五郎

いじゅういん ごろう

Ijuin Goro

日本海海戦の影の立役者。連合艦隊の砲弾威力を倍増させた「伊集院信管」を開発した薩摩出身の元帥海軍大将。

生没年
出身地
薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現・鹿児島県鹿児島市)
死没地
東京府東京市麹町区永田町
時代
明治・大正
役職
元帥海軍大将
タグ
日露戦争 / 日本海海戦 / 元帥海軍大将 / 薩摩藩 / 伊集院信管

日本海海戦の影の立役者 ——「伊集院信管」を生んだ薩摩の海軍士官

伊集院五郎は、明治海軍の中で最も技術的な貢献を残した元帥海軍大将である。下瀬雅允技師が開発した下瀬火薬の威力を最大限引き出すために伊集院が考案した「伊集院信管」は、明治 38 年(1905 年)5 月の日本海海戦で連合艦隊の砲弾を「ロシア戦艦を一発で炎上させる兵器」へと変えた。

東郷平八郎の采配、秋山真之の作戦立案 — 日本海海戦の劇的勝利は多くの英雄譚で語られるが、技術面からの最大の貢献者は伊集院だった。同時代から「日本海海戦の影の立役者」と呼ばれ、大正 4 年(1915 年)に元帥府に列せられた。

英国海軍に学んだ博識、信管開発の緻密さ、第一艦隊司令長官時代の猛訓練「月月火水木金金」 — 表に立たない仕事を積み上げて海軍を強くしていった、明治海軍の縁の下の力持ちだった。

薩摩藩士の子、英国海軍に学ぶ

嘉永 5 年(1852 年)、薩摩国鹿児島城下に薩摩藩士の家に生まれる。維新を 16 歳で迎え、明治 4 年(1871 年)、海軍兵学寮幼年学舎入校。明治新政府海軍の最初期の士官候補生の一人である。

明治 10 年(1877 年)から英国留学。明治 11 年から 14 年にかけて英国戦艦「トライアンフ」(HMS Triumph)に乗組し、英国海軍の実艦勤務を経験した。続く明治 15 年 10 月、グリニッジ海軍大学校(Royal Naval College)入学、明治 16 年 6 月卒業。

当時の日本海軍において、英国海軍兵学校と海軍大学校の両方で兵学を学んだ士官は数少なく、伊集院は帰国後ただちに博識を生かした任務に登用された。砲術・水雷術・機関術 — 最新海軍技術の輸入と国産化が、伊集院の生涯の主題となる。

伊集院信管 — 砲弾を「炎上兵器」に変えた発明

明治 30 年代、日本海軍は下瀬火薬(下瀬雅允海軍技師が開発した苦味酸系炸薬)を採用したが、当初の信管(炸裂のタイミングを制御する部品)では下瀬火薬の威力を十分に引き出せなかった。命中後の炸裂が遅れ、貫通だけで終わる被弾が多かったのである。

伊集院は信管の改良に取り組み、命中の衝撃でほぼ瞬時に炸裂し、敵艦表面で大量の高温破片と火炎を発生させる新型信管を開発した。これが「伊集院信管」である。下瀬火薬と伊集院信管の組み合わせは、命中した敵艦の上甲板を一瞬で炎上させ、火災で戦闘能力を奪う威力を持っていた。

明治 38 年(1905 年)5 月 27 日、対馬海峡。連合艦隊の砲弾はロシア・バルチック艦隊の戦艦を次々と炎上させた。ロシア側の記録には「日本の砲弾は当たると同時に火を噴く」「装甲を破る前に上甲板を焼き払う」という驚愕の証言が残されている。日本海海戦の一方的な勝利の技術的背景には、伊集院信管が常にあった。

連合艦隊の猛訓練 ——「月月火水木金金」の発祥

伊集院は第一艦隊司令長官(明治 41 年-同 42 年)時代に、土曜・日曜を返上して訓練を続ける猛烈な艦隊訓練を実施した。月曜・火曜・水曜・木曜・金曜・土曜・日曜のすべてが訓練日 — これが後に軍歌『月月火水木金金』(高橋俊策作詞、江口源吾作曲、昭和 15 年)の原型となった。

軍歌『月月火水木金金』は昭和の太平洋戦争期に国民歌として大流行したが、その原型を作ったのが伊集院の艦隊訓練だったことは、当時の海軍内では広く知られた逸話だった。

元帥府列序、参謀総長相当の地位へ

明治 36 年(1903 年)中将、明治 43 年(1910 年)大将。大正 6 年(1917 年)5 月 26 日、元帥府に列せられる。海軍の元帥は東郷平八郎・井上良馨・伊集院五郎・東伏見宮依仁親王・島村速雄(没後追賜)など限られた人数で、その一人に技術系の伊集院が選ばれたことが、海軍内における伊集院の評価を物語る。

大正 10 年(1921 年)1 月 13 日、東京・麹町区永田町の自邸で動脈硬化症により薨去。享年 68。

逸話・エピソード

下瀬雅允との二人三脚 ——「火薬の下瀬、信管の伊集院」

下瀬火薬を発明した下瀬雅允海軍技師(1860-1911)と、伊集院五郎の関係は、明治海軍兵器史の双璧と称された。下瀬は薩摩出身の海軍技師(後に海軍造兵中将)、伊集院は同郷の海軍士官 — 二人は同郷の縁で深く協力し、火薬と信管をセットで完成させた。

下瀬火薬の致命的な欠点は、保存と取り扱いの難しさで、艦内火災で誘爆する事故が多発した。後年の海軍では下瀬火薬を順次退役させ、より安定した炸薬への置き換えが進む。しかし日露戦争の時点での圧倒的な攻撃力は、下瀬+伊集院の組み合わせなくしては実現しなかった。「火薬の下瀬、信管の伊集院」 — 二人の薩摩出身者がいなければ、対馬海峡の勝利の構図は別の形になっていた。

「月月火水木金金」の艦隊訓練 — 部下から恨まれた司令長官

伊集院の第一艦隊司令長官時代の訓練は、若い士官・兵士から「月月火水木金金の司令長官」と陰口を叩かれるほど苛烈だった。土曜・日曜の上陸も認めず、艦内で砲術・水雷術・操艦の訓練を繰り返す。

伊集院本人は「日本海海戦の勝利は訓練の差で決まった。次の戦争でも同じだ」と部下に説いた。後年、太平洋戦争期に軍歌『月月火水木金金』が大流行したとき、初老になった日露戦争世代の元士官たちは「あの歌の元祖はうちの司令長官だった」と懐かしんだという。

「日本海海戦は私の手柄ではない」 — 元帥就任を辞退しかけた話

大正 6 年(1917 年)、元帥府列序の打診に対して、伊集院は「日本海海戦の勝利は東郷長官と秋山参謀の作戦による。私は信管を作っただけだ」として、一度は辞退する意向を示したと伝わる。海軍省の説得で最終的に受諾したが、伊集院の自己評価は終始謙抑だった。

技術系出身の士官として、戦闘指揮の表舞台に立つことなく海軍を強くしてきた自負と、戦闘で華々しい武勲を立てた指揮官たちへの敬意が、伊集院の中で両立していた。元帥府に列する儀式の日も、伊集院は普段着の制服で出席したという。

青山霊園に眠る

伊集院五郎の墓は青山霊園にある。同じ青山霊園には、日露戦争連合艦隊で参謀長を務めた島村速雄、同期で日本海海戦に従軍した有馬良橘、薩摩出身の海軍大先輩・山本権兵衛、旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫 — 明治海軍を共に作り上げた人々の墓が並ぶ。

技術と訓練で海軍を変えた元帥は、表舞台の英雄たちと同じ霊園に静かに眠っている。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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