島村 速雄
しまむら はやお
Shimamura Hayao
日露戦争で連合艦隊参謀長として東郷平八郎を支えた元帥海軍大将。土佐出身者として初の元帥に追賜され、軍人離れした無欲の人格で知られた。
東郷平八郎の作戦を支えた連合艦隊参謀長
島村速雄は、日露戦争の日本海海戦(明治 38 年/1905 年 5 月 27-28 日)で、連合艦隊司令長官・東郷平八郎の幕僚トップ(参謀長)を務めた海軍中将である。秋山真之参謀らとともに対馬海峡迎撃案を練り上げ、世界海戦史上稀な完勝を実現した中枢にいた一人だった。
性格は寡黙で、軍人には珍しいほど功名主義のないことで知られた。「自分の手柄を語らない、他人に功を譲る、決して感情を露わにしない」 — 同時代の海軍士官の評は一致していた。土佐藩出身、海軍兵学校 7 期を首席で卒業した秀才だが、政争にも派閥争いにも一切関わらず、ただ仕事を黙々と進める士官だった。
軍令部長(大正 3 年-同 9 年)として八八艦隊計画と第一次世界大戦参戦を取り仕切り、大正 12 年(1923 年)1 月 8 日に脳血栓で急逝。土佐出身者として初の元帥海軍大将に没後追賜された。享年 64。
土佐藩士の子、海軍兵学校首席で頭角を現す
安政 5 年(1858 年)、土佐国土佐郡高知城下本町に生まれる。土佐藩士・島村源助の長男。維新時 10 歳。明治新政府の海軍が創設されると、海軍兵学寮に進み、本科でも常に首席を維持した秀才として知られた。
明治 14 年(1881 年)、海軍兵学校 7 期を 23 歳で首席卒業。海軍少尉補。同期に上村彦之丞・出羽重遠ら後の海軍中枢人物がいたが、「兵学校 7 期に島村あり」と一目置かれる存在だった。
連合艦隊参謀長 — 東郷の右腕として対馬海峡へ
明治 37 年(1904 年)2 月、日露戦争開戦。島村は連合艦隊参謀長として、司令長官・東郷平八郎の幕僚トップとなった。旅順港封鎖、ウラジオストク艦隊の追撃、黄海海戦 — 開戦から一年余り、ロシア太平洋艦隊との戦闘指揮を全うした。
明治 38 年(1905 年)1 月、島村は第二戦隊司令官に転出し、麾下を率いて日本海海戦に参加。連合艦隊参謀長の後任は加藤友三郎(後の首相)。秋山真之作戦参謀の対馬海峡迎撃案を島村が技術面・運用面から支え、東郷の決断を引き出した — というのが日本海海戦の中枢の構造である。
5 月 27-28 日、対馬海峡。バルチック艦隊 38 隻のうち撃沈・拿捕・自沈合計 35 隻、生還できたロシア艦はわずか 3 隻。世界海戦史に類を見ない一方的勝利だった。島村は第二戦隊司令官として、戦艦・装甲巡洋艦を率いて主戦闘の中核を担った。
軍令部長 — 八八艦隊と第一次世界大戦
明治 44 年(1911 年)中将、大正 4 年(1915 年)大将。大正 3 年(1914 年)から大正 9 年(1920 年)まで第 7 代海軍軍令部長を務めた。在任 6 年は歴代軍令部長の中で長期に属する。
軍令部長として島村が見届けたのは、第一次世界大戦への参戦(大正 3 年)、地中海への第二特務艦隊派遣(大正 6 年)、八八艦隊計画(戦艦 8 隻+巡洋戦艦 8 隻)の予算化(大正 9 年)である。八八艦隊計画は後にワシントン海軍軍縮条約(大正 11 年)で頓挫するが、その建艦予算が国家の上限を試す巨大な計画として承認されたのは島村軍令部長の時代だった。
大正 12 年(1923 年)1 月 8 日、東京で脳血栓のため急逝。享年 64。同日付で元帥府に列せられる(没後追賜)。土佐藩出身者として初めての元帥海軍大将である。
逸話・エピソード
加藤友三郎との生涯の友情
連合艦隊参謀長として東郷平八郎を支えた島村が、明治 38 年(1905 年)1 月に第二戦隊司令官として艦隊指揮に移ったとき、後任の参謀長に推薦したのが加藤友三郎(海兵 7 期同期)だった。日本海海戦で東郷の右脇に立ち続けた加藤は、後に海軍大臣・首相として大正期日本を率いる人物となる。
島村と加藤の友情は生涯続いた。加藤が海軍大臣として八八艦隊計画を推進していた頃、軍令部長の島村は技術面から加藤を全力で支援した。逆に大正 11 年(1922 年)のワシントン軍縮条約で加藤が「主力艦比率 6 割」を受諾したとき、島村は「加藤の判断は正しい」と公言して海軍内強硬派を抑えた。
加藤友三郎は大正 12 年(1923 年)8 月 24 日に首相在任中に病死した。島村は加藤の死の 7 か月前、1 月 8 日に先に逝去している。二人の海軍兵学校 7 期首席組は、相次いで世を去った。同じ青山霊園に、二人の墓は今も並んでいる。
「島村は功を語らず」 — 軍人離れした性格
島村の同僚や部下が一致して証言するのは、「島村は自分の手柄を絶対に口にしない」「他人に功を譲ることをいとわない」「感情を顔に出さない」という三点だった。
日本海海戦後の論功行賞で、島村は連合艦隊参謀長として作戦立案に深く関わったにもかかわらず、表彰の場では「自分は司令長官の補佐をしただけ」と繰り返し、秋山真之参謀の働きを賞賛した。「智謀の底が知れない」と評された秀才でありながら、智謀を誇示する素振りを生涯見せなかった。
明治海軍の指揮官に多かった「薩摩・長州出身の派閥」「猛将型のキャラクター」とは正反対の人物像で、土佐出身という非藩閥的立場とも相まって、海軍内では「無欲の島村」と呼ばれた。
軍令部長時代の朝の質問 ——「君なら、どう判断するか」
軍令部長時代、島村は朝の幕僚会議で必ず若手参謀に「君なら、この問題をどう判断するか」と質問する習慣を持っていた。自分が結論を先に出さず、若手に考えさせ、議論を尽くしてから決断する — それが島村の作戦指導のスタイルだった。
「智謀底知れず」と評された島村が、自分の知恵を披露するのではなく、若手の意見を引き出す側に回ったことに、当時の参謀たちは深く感銘を受けた。後年の海軍軍令部の伝統 — 若手参謀の作戦草案を尊重する文化 — の一端は、島村時代に作られたとされる。
青山霊園に眠る
島村速雄の墓は青山霊園にある。同じ青山霊園には、生涯の友・加藤友三郎、連合艦隊で共に戦った伊集院五郎・有馬良橘、旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫、明治海軍の大先輩・山本権兵衛 — 日露戦争を共に戦った海軍指導者たちが集まっている。
土佐出身者として初めて元帥府に列した寡黙な参謀長は、薩摩・長州出身の海軍人脈の中心にいながら、政争に巻き込まれることなく一生を終えた。





