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南山の戦い


日露戦争初期、奥保鞏率いる第二軍が遼東半島の要衝・南山を奪取。死傷者 4,387 名の大損害で「電報の零が一つ多い」と東京大本営が誤認した、後に「南山の奥」と呼ばれる激戦。

Japanese Army Landing on the Liaodong Peninsula 1
Japanese Army Landing on the Liaodong Peninsula 1 Imperial Japanese Navy General Staff / Wikimedia Commons / Public domain
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戦争

旅順を孤立させた死闘 ——「南山の奥」の渾名はここから

南山の戦いは、明治 37 年(1904 年)5 月 26 日、遼東半島の付け根に位置する戦略要衝・南山(現・中国遼寧省大連市金州区)で、奥保鞏率いる日本第二軍とロシア東シベリア狙撃軍が戦った日露戦争初期の主要会戦である。

日本側は南山を一日の戦闘で奪取し、旅順要塞をロシア本土から陸路で孤立させることに成功した。しかし日本側戦死傷者は 4,387 名と、当時の日本陸軍にとって衝撃的な損害だった。あまりの多さに、東京の大本営は「電報の数字に余分な零が一つ付いているのではないか」と現地に問い合わせたという。

奥保鞏は以後「南山の奥」の渾名で陸軍内に知られるようになる。第二軍の南山奪取は、その後の旅順攻略(乃木希典・第三軍)を可能にする戦略的前提となった。

背景 — 旅順を陸から孤立させる

明治 37 年(1904 年)2 月の日露戦争開戦時、ロシア太平洋艦隊は旅順港を母港とし、要塞化された港湾に閉じこもっていた。日本海軍は閉塞作戦で艦隊を港内に閉じ込めようとしたが、決定的な封鎖には至らない(3 月の第二次閉塞で広瀬武夫が戦死)。

陸軍の任務は、旅順をロシア本土・極東軍からの陸路補給を断ち、要塞を孤立させることだった。そのためには遼東半島の付け根、半島と本土を結ぶ陸路の最狭部にある南山を奪取する必要があった。

第二軍司令官・奥保鞏(陸軍大将)に与えられた任務は、この南山の攻略である。第二軍は遼東半島の塩大澳に上陸(5 月 5 日)、南山に展開するロシア第 5 東シベリア狙撃師団(司令官・フォーク少将)と対峙した。

5 月 26 日 — 一日の正面攻撃

明治 37 年(1904 年)5 月 26 日、第二軍の正面攻撃が開始された。南山はロシア軍が事前に塹壕・鉄条網・機関銃陣地を整備した防御陣地で、近代的火力を備えた防衛体制が築かれていた。

第二軍は第一師団・第三師団・第四師団を投入し、正面と側面から南山ロシア陣地に攻撃を加えた。ロシア軍の機関銃と砲弾は日本歩兵に大量の損害を与え、午前中の攻撃は度重なる挫折に終わった。

午後、第四師団の側面からの突撃と、海軍砲艦からの艦砲射撃の支援で、ロシア軍陣地の一角が崩れる。日没近く、第二軍は南山陣地を奪取、ロシア軍は北方の大連方面へ撤退した。

損害 ——「電報の零が一つ多いのではないか」

一日の戦闘で第二軍が出した戦死傷者は 4,387 名(戦死約 750 名、戦傷約 3,600 名)。日清戦争(明治 27-28 年)で日本陸軍が経験した最大規模の戦闘損害をはるかに上回る数字だった。

東京の大本営が現地から受け取った報告電報を読んだ参謀本部の幕僚は、当初「数字に余分な零が一つ付いているのではないか」と現地に問い合わせたと伝わる。それほど予想外の損害規模だった。

奥保鞏は南山奪取の戦果報告を受けながらも、戦死傷者報告に深い衝撃を受けた。「自分の判断で部下を 4 千以上死傷させた」 — 寡黙な性格の奥が後年「済まぬ、許してくれ」と凱旋の最中に呟いた背景には、南山の損害が刻まれていたとされる。

戦略的意義 — 旅順攻略の前提を作る

軍事的損害は深刻だったが、戦略的には大きな勝利だった。南山奪取で旅順は陸路でロシア本土と隔絶され、ロシア極東軍が旅順を救援することは事実上不可能になった。

その後、日本陸軍は乃木希典率いる第三軍を編成し、旅順要塞攻略を担当させる。第三軍の旅順攻囲戦(8 月-12 月)、二〇三高地占領(12 月 5 日)、旅順陥落(明治 38 年 1 月 2 日)はすべて、南山の奪取で旅順が孤立した状態を前提として展開した。

歴史的影響

  1. 機関銃時代の歩兵戦闘の現実

南山の戦いで日本陸軍が経験した一日 4,387 名の損害は、機関銃と塹壕陣地に対する近代歩兵戦闘の現実を示した。10 年後の第一次世界大戦・西部戦線で見られる大規模消耗戦の前兆ともいえる戦闘だった。各国陸軍は南山の戦闘経過を研究対象とし、近代陣地戦の教訓を抽出した。

  1. 旅順攻略への一本道

南山奪取で旅順が完全に孤立し、日本陸軍は乃木希典の第三軍を編成して旅順要塞攻略に専念する戦略を取ることが可能になった。旅順攻略の長期化(8 月-12 月)とその間に出た莫大な損害は、南山の戦いという前提があってこそ「旅順を必ず落とす」という戦略意思が崩れずに継続された。

  1. 「南山の奥」 — 日露戦争期の奥保鞏の地位

奥保鞏は南山攻略の指揮官として「南山の奥」と呼ばれ、その後の遼陽・沙河・黒溝台・奉天と続く日露戦争陸戦の中で、最前線を歩み続ける将官として陸軍内の信頼を確立した。明治 44 年(1911 年)の元帥府列序 — 皇族と薩長以外で初の元帥 — の原点は、南山にあった。

関連する偉人とその役割

奥 保鞏(第二軍司令官 / 陸軍大将、後の元帥)

豊前小倉藩士の家に生まれ、西南戦争で熊本城籠城戦に従軍した戦歴を持つ。日露戦争では第二軍司令官として、南山の戦い、得利寺の戦い、遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦奉天会戦日露戦争陸戦の中軸を歩んだ。

南山では一日 4,387 名の戦死傷者を出しつつ陣地を奪取し、「南山の奥」の渾名を得た。寡黙な性格で戦功を語らず、凱旋の最中にも「済まぬ、許してくれ」と呟いたと伝わる。明治 44 年(1911 年)10 月、元帥府に列せられる。本霊園に眠る。

関連する作品

司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年連載)では、南山の戦いは日露戦争陸戦の最初の本格的会戦として描かれる。秋山好古の騎兵旅団も第二軍と協同し、機関銃時代の戦闘の現実を物語る場面となる。NHK スペシャルドラマ版(2009-2011 年)でも、南山の損害規模が日露戦争の苛烈さを示す象徴的場面として映像化されている。

長南政義『児玉源太郎』(作品社)、半藤一利『日露戦争史』(平凡社)、ロストゥノフ『日露戦争史』(露語)など、日露戦争史を扱う主要な研究書はいずれも南山の戦いを重要な転換点として記述している。

参考資料

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