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虎ノ門事件


摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が議会開院式に向かう途中、虎ノ門で無政府主義者・難波大助に狙撃される。山本権兵衛内閣は警備責任を取り総辞職した。

Monument of Toranomon -01
Monument of Toranomon -01 Aimaimyi / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
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摂政宮が虎ノ門で狙撃された日

虎ノ門事件は、大正 12 年(1923 年)12 月 27 日午前 10 時 40 分頃、東京・虎ノ門外で発生した、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)に対する暗殺未遂事件である。第 48 回帝国議会開院式に向かう摂政宮の車両を、無政府主義者・難波大助(山口県出身、当時 24 歳)がステッキ式銃で襲撃した。

弾丸は車両の窓を貫通し、東宮侍従長・入江為守の顔に軽傷を負わせたが、摂政宮自身は無事だった。難波はその場で取り押さえられ、翌大正 13 年(1924 年)11 月 13 日に大審院で死刑判決、同月 15 日に処刑された。

事件の警備責任を取り、第 2 次山本権兵衛内閣(本霊園に眠る山本権兵衛が首相)は同 12 月 27 日に辞表を捧呈、翌大正 13 年(1924 年)1 月 7 日に総辞職した。関東大震災(同年 9 月 1 日)直後の混乱期に成立し、後藤新平の帝都復興構想を立ち上げたこの内閣は、わずか 4 か月余の短命に終わった。

事件は、関東大震災後の社会不安・経済不況・思想統制の強化が交錯する大正末期社会の暗部を象徴する出来事として、また、戦前日本史における皇族襲撃事件として、特異な位置を占めている。

背景 — 関東大震災と社会不安

事件の 4 か月前の大正 12 年(1923 年)9 月 1 日、関東大震災が発生。死者・行方不明者約 10 万 5,000 名、東京市の 3 分の 2 が灰燼に帰した、日本史上最大級の都市災害だった。震災直後の混乱の中で、朝鮮人虐殺・社会主義者虐殺(亀戸事件・甘粕事件)が発生、社会の傷は深く残った。

第 2 次山本権兵衛内閣は震災発生翌日の 9 月 2 日に成立、戒厳令布告・後藤新平内相起用・帝都復興院設置と、震災対応の中枢を担っていた。一方、震災後の経済不況、米騒動以来の物価上昇、社会主義・無政府主義への弾圧強化は、若い世代の中に強い反体制感情を醸成していた。

犯人・難波大助は山口県熊毛郡周防村(現・周南市)出身、衆議院議員・難波作之進の四男という政治家系の青年だった。早稲田大学高等学院を中退、過激な社会運動・無政府主義思想に接近し、関東大震災後の朝鮮人虐殺・亀戸事件・甘粕事件の報道に強い衝撃を受け、「皇族と政府の責任を問う」決意で凶行を計画した。

12 月 27 日 — 虎ノ門外で

大正 12 年(1923 年)12 月 27 日午前 10 時 40 分頃、第 48 回帝国議会開院式出席のため、摂政宮裕仁親王(当時 22 歳)を乗せた皇族専用車が赤坂離宮(現・迎賓館)から議事堂(臨時議事堂、現在の国会議事堂はまだ建設中)へ向かう途中、東京市麹町区(現・港区)虎ノ門外を通過していた。

沿道で待ち構えていた難波大助は、改造ステッキ式銃(ステッキの中に銃身を仕込んだもの)を取り出し、摂政宮の車両に向けて発砲。弾丸は車両右側の窓ガラスを貫通し、車内にいた東宮侍従長・入江為守の頬を擦過して軽傷を負わせた。摂政宮自身は左側に座っており、無傷だった。

難波は即座に警察官・群衆に取り押さえられた。摂政宮の車両は予定通り議事堂に向かい、開院式の朗読は通常通り行われた。一連の出来事はわずか数十秒で終わったが、皇族(まして将来の天皇)が銃撃されるという事態の重みは、明治以降の日本史で前例のないものだった。

政府の対応と内閣総辞職

事件発生の報告を受けた山本権兵衛首相は、ただちに警備責任を取って辞表を捧呈する意向を示した。事件当日の閣議で辞表が決定、12 月 27 日付で天皇(裕仁摂政)に辞表が捧呈された。

翌大正 13 年(1924 年)1 月 7 日、山本内閣は正式に総辞職。関東大震災後の重大局面で組閣し、後藤新平に帝都復興を委ねた内閣は、わずか約 4 か月でその使命を中断させられた。

警備責任を問われたのは内閣だけではなかった。警視総監・湯浅倉平、警視庁警務部長・正力松太郎(後の読売新聞社主、本霊園とは別の関係)らが懲戒免職・辞職処分。警備警察の総入れ替えが行われた。

難波大助裁判と処刑

事件後、難波は治安維持を担当する判事・検事による予審を経て、大審院(現在の最高裁判所)で裁判にかけられた。大審院は当時、皇族関連の重大事件を一審で扱う特別管轄を持っていた。

弁護人は布施辰治(後に治安維持法弾圧事件の弁護人としても活躍)。裁判で難波は「天皇制打倒・皇族廃絶」「無政府主義」「関東大震災の朝鮮人虐殺・社会主義者虐殺への抗議」を堂々と主張した。難波は裁判で謝罪も悔悟も一切示さず、「自分の信念に基づく行動である」と主張し続けた。

大正 13 年(1924 年)11 月 13 日、大審院は難波に死刑判決を下した。同月 15 日、市ヶ谷刑務所で絞首刑が執行された。難波の遺体は遺族にも返されず、葬儀も禁じられた。父・難波作之進(衆議院議員)は事件後に議員辞職、自宅謹慎、衆人との交流を絶ち、絶食断行し翌大正 13 年(1924 年)に死去した。

歴史的影響

  1. 山本権兵衛内閣の終焉と政党政治期への移行 山本内閣の総辞職後、清浦奎吾内閣(超然内閣)が成立。これに対し、加藤高明(憲政会)・高橋是清(政友会)・犬養毅(革新倶楽部)が「護憲三派」を組織して第二次護憲運動を起こし、大正 13 年 6 月に加藤高明内閣が成立、本格的政党内閣期に入る。虎ノ門事件は、山本という海軍出身首相の時代から、政党政治の時代への過渡点となった。

  2. 治安維持法成立への布石 事件は社会主義者・無政府主義者への弾圧強化を世論に正当化する根拠となった。翌大正 14 年(1925 年)4 月、加藤高明内閣下で治安維持法が成立。普通選挙法と同時期に成立した治安維持法は、大正デモクラシーの「光と影」の影の側を象徴する。

  3. 皇族警備の徹底 事件以後、皇族の警備は格段に強化され、宮内省・警視庁・憲兵隊の連携体制が再編された。昭和期を通じてこの強化された警備体制が維持され、戦後の皇宮警察に引き継がれていく。

  4. 戦前期天皇制と思想犯 難波の動機・主張(無政府主義・天皇制打倒)が裁判記録として残ったことで、戦前期日本における思想犯の存在と、その思想的根拠が公的に記録された。これは戦後の思想史研究で重要な史料となっている。

関連する偉人とその役割

山本 権兵衛(第 2 次内閣総理大臣)

薩摩出身、海軍大将。日本海軍の制度を一手に作り上げ、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した明治海軍の実質的設計者。第 1 次内閣(1913-1914)はシーメンス事件で総辞職、第 2 次内閣(1923 年 9 月 - 1924 年 1 月)は関東大震災直後に組閣し、後藤新平に帝都復興を委ねる体制を立ち上げた。

虎ノ門事件発生後、警備責任を取って同日(12 月 27 日)に辞表を捧呈、翌年 1 月 7 日に総辞職した。震災後の混乱期にあった国家の指導者として、わずか 4 か月余の在任期間にもかかわらず、後藤新平の起用と帝都復興構想の枠組み(現在の昭和通り・隅田川六大橋・大公園など)を残したことは、戦前期内閣総理大臣の中でも特異な業績である。事件後、政界の表舞台から退き、昭和 8 年(1933 年)12 月 8 日に死去。享年 81。本霊園 1 種イ 9 号 26 側に眠る。

関連する作品

  • 山田風太郎『明治十手架』『戦中派不戦日記』(角川文庫) — 虎ノ門事件・難波大助の事件像を、戦前思想史の文脈で再構成
  • 中島岳志『朝日平吾の鬱屈』(双葉社、2009 年) — 大正期テロリストとしての難波大助像を、朝日平吾(安田善次郎暗殺犯)との比較で論じる
  • NHK『その時歴史が動いた・虎ノ門事件と山本権兵衛内閣の総辞職』 — 事件の経緯と山本内閣の決断を再構成する歴史ドキュメンタリー

参考資料

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