沢 太郎左衛門
さわ たろうざえもん
Sawa Tarozaemon
幕府海軍士官。オランダ留学組として開陽丸を回航、榎本武揚とともに蝦夷地に渡って函館戦争を戦った。維新後は開拓使技師。
幕府海軍の最後の士官 — オランダから函館へ
沢太郎左衛門は、幕府海軍の精鋭士官として、文久2年(1862年)にオランダ留学を命じられ、榎本武揚らと共に約4年半をハーグで過ごした人物である。留学組は近代海軍士官として砲術・蒸気機関・国際法・海運を学び、オランダで建造された幕府最強の軍艦・開陽丸の引き取りと回航を任務として帰国した。
帰国直後の慶応3年(1867年)、開陽丸艦長として横浜入港。すぐに大政奉還・鳥羽伏見の戦いを経て幕府が崩壊。明治元年(1868年)8月、榎本武揚が幕府艦隊8隻を率いて品川を脱走、蝦夷地・箱館に渡る。沢は開陽丸副艦長(後に艦長代行)としてこの航海を指揮、蝦夷共和国の海軍として戊辰戦争最後の戦線・箱館戦争を戦った。
維新後、敵将・黒田清隆の助命で釈放され、北海道開拓使技師として札幌の都市建設、鉄道建設、工業政策に従事。維新前後を貫いて「技術者としての一貫性」を示した数少ない幕臣の一人である。
幕府海軍と長崎海軍伝習所
天保5年(1834年)、武蔵国(現・東京都)で幕府旗本の家に生まれる。少年期から砲術・蘭学を学び、長崎海軍伝習所(安政2年〜安政6年、勝海舟・榎本武揚らも学んだ幕府の海軍学校)で第2期生として航海術・砲術・蒸気機関を修めた。卒業後は江戸の軍艦操練所で教官を務める。
オランダ留学 — 開陽丸を持ち帰る
文久2年(1862年)、幕府が次世代軍艦の建造をオランダに発注した際、その引き取りと操艦のためのオランダ留学を命じられる。同期は榎本武揚、沢野貞之助、津田真道(後の明治の啓蒙思想家)、西周(後の啓蒙学者・哲学者)ら15名。文久2年(1862年)に咸臨丸でオランダに渡り、文久3年(1863年)4月にロッテルダム到着。
ハーグで下宿し、ロッテルダムで開陽丸建造を監督しながら、砲術・蒸気機関学・化学・国際法・船舶運用術を本格的に学んだ。慶応3年(1867年)3月、開陽丸完成。同年12月、回航して横浜入港。間もなく大政奉還が発表され、幕府の崩壊と並行しての帰国となった。
鳥羽伏見・脱走艦隊・箱館戦争
慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いで、沢は開陽丸副艦長として大坂沖に在泊。徳川慶喜が江戸へ撤退すると、艦も江戸湾に帰る。同年8月、榎本武揚は新政府への艦隊引き渡しを拒否、開陽丸を旗艦とする幕府艦隊8隻で品川沖を脱走、仙台を経て蝦夷地へ向かう。
10月、蝦夷地・鷲ノ木に上陸して箱館(現・函館)を制圧、12月に「蝦夷共和国」を組織。沢は海軍奉行並として艦隊運用を担当した。明治元年(1868年)11月15日、開陽丸は江差沖で暴風雨に遭い座礁・沈没。蝦夷共和国は最強の艦を失い、海軍力で劣勢となる。
明治2年(1869年)5月、五稜郭が官軍に開城。沢は榎本らとともに東京に護送され、約2年半の獄中生活を送る。
黒田清隆の助命嘆願 — 開拓使技師として再起
明治5年(1872年)、薩摩出身の参議・黒田清隆らの助命嘆願により、榎本・沢らは特赦で釈放される。開明的な敵将・黒田は、彼らの欧州留学経験と技術力を新政府で活用すべきと主張した。
沢は北海道開拓使に出仕。技師として札幌の市街建設、官営工場の設立、北海道炭礦鉄道の設計に関与した。並行して、海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)の教官として航海術・砲術を教え、明治期の海軍士官養成にも貢献した。
明治後半 — 鉄道・工業の現場へ
明治10年代以降、沢は陸軍砲兵会議所、火薬工場、東京砲兵工廠などで火薬・兵器の技術指導を担当。幕末オランダ留学組の中で、政治家として表に出た榎本武揚と対照的に、沢は終生「技術者」として現場に立ち続けた。
明治31年(1898年)9月8日、東京で死去。享年64。
逸話・エピソード
開陽丸沈没の責任
明治元年(1868 年)11 月、開陽丸が江差沖で暴風雨に遭い座礁・沈没したとき、副艦長として艦に乗っていた沢は深い自責の念を抱いたと伝わる。最強の軍艦を失った瞬間、蝦夷共和国の海軍力は崩壊し、敗北は決定的となった。出獄後、沢は政治の表舞台には立たず黙々と技術者として現場に立ち続けた背景には、この開陽丸喪失への悔恨があったとされる。
オランダで覚えた日本人留学生の連帯
文久 3 年(1863 年)からハーグで過ごした 4 年半、沢は榎本武揚・西周・津田真道ら 15 名の同期と寝食を共にした。下宿先での蘭学談義は深夜まで続き、後の明治啓蒙思想・近代海軍・近代法学の人脈の原型がここで形成された。維新後、政治的立場が分かれてもこの留学組同士の絆は終生失われず、黒田清隆の助命嘆願も榎本らへの仲間意識が背景にあったとされる。
維新の勝者と敗者が混じる「1種イ1号」
沢の墓所と同じ「1種イ1号」区画には、敵将であった黒田清隆や明治政府の重鎮たちが並ぶ。維新で敗れて獄に入った幕府海軍士官と、自らの助命を嘆願した薩摩の参議が、同じ一画に眠っている配置は、明治日本が幕臣の技術力をどう吸収して立ち上がったかを地形に刻んでいる。
青山霊園に眠る
沢太郎左衛門の墓は、青山霊園 1種イ1号25側にある。同じ「1種イ1号」の区画には、大久保利通(2号15側)・池田勇人(26側)・斎藤茂吉などが眠る。維新を成し遂げた人々と、その維新で敗れて出獄後に技術者として再起した幕臣が、同じ青山の一画に眠っている。
オランダから持ち帰った開陽丸が江差沖に沈み、自らも箱館で敗れ、出獄後は黙々と開拓使と工廠の現場に立った男 — 沢太郎左衛門の人生は、近代日本が幕臣の技術者たちをどう吸収して立ち上がったかを、最も静かに伝える系譜の一つである。



