立見 尚文
たつみ なおふみ
Tatsumi Naofumi
桑名藩士から陸軍大将へ。戊辰戦争・北越戦線で雷神隊を率いて勇名を馳せ、日露戦争では「東洋一の用兵家」と讃えられた将軍。
「東洋一の用兵家」 — 朝敵から陸軍大将へ
立見尚文は、戊辰戦争で桑名藩・雷神隊を率いて北越戦線を席巻した幕末の青年武将であり、明治後は陸軍大将・男爵にまで昇った日露戦争屈指の名将である。通称・鑑三郎。桑名藩は徳川譜代の名門で、藩主・松平定敬は会津藩主・松平容保の実弟。鳥羽伏見の戦いで朝敵となり、戊辰戦争を奥羽越列藩同盟側で戦った藩であった。
立見はその桑名藩の精鋭・雷神隊を率いて北越戦線に転戦、特に朝日山争奪戦では官軍の奇兵隊・時山直八を討ち取って勇名を馳せた。維新後、明治政府が朝敵側の人材を陸軍に取り立てる中、立見も陸軍に入り、西南戦争・日清戦争・日露戦争で連戦連勝。日露戦争・黒溝台会戦の鬼神の采配は、薩摩出身の野津道貫元帥に「東洋一の用兵家」と讃えられた。明治40年(1907年)、62歳で病没。
桑名藩士・町田家の三男
弘化2年(1845年)8月21日、伊勢国桑名藩士・町田伝太夫の三男として生まれる。幼名・銀次郎。早くから槍術・剣術・砲術を学び、桑名藩の松平容敬・定敬両藩主に重用された。後に同じ桑名藩士・立見家の養子となり、立見鑑三郎尚文と名乗る。
慶応元年(1865年)、京都所司代・松平定敬に従って上洛、京都守護職の警備に当たる。慶応3年(1867年)の大政奉還、慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いで桑名藩は朝敵となり、立見はわずか23歳で雷神隊長として戊辰戦争を戦うことになる。
北越戦線 — 雷神隊と朝日山の奇襲
桑名藩兵は鳥羽伏見の敗戦後、藩主・松平定敬とともに北越に逃れ、奥羽越列藩同盟の一翼として越後・会津で官軍と戦った。立見は最精鋭の遊撃隊「雷神隊」を率いて、北越戦線を駆け回る。
慶応4年(1868年)5月の朝日山争奪戦では、官軍・奇兵隊出身の時山直八(山県有朋の腹心)を狙撃で討ち取った。北越戦線における同盟軍最大の戦果の一つである。「桑名の雷神隊」の名は、官軍の間でも畏怖された。
しかし戦況は同盟側に不利で、9月の会津若松開城、藩主・定敬の降伏(明治2年5月)で桑名藩の戊辰戦争は終わった。立見は元朝敵として一時謹慎処分を受ける。
明治の陸軍へ — 朝敵からの再起
明治5年(1872年)、新生・大日本帝国陸軍の少佐に任官。明治政府は西郷隆盛・大村益次郎らの建議で、戊辰戦争の朝敵側からも優秀な軍人を登用する方針を取っており、立見はその代表例となった。
明治10年(1877年)の西南戦争では、東京から急派された別働第二旅団に属して薩軍と戦う。20年前は朝敵だった桑名出身の軍人が、今度は政府軍の側で薩軍と相対する逆転の構図であった。続く明治27年(1894年)の日清戦争では第六旅団長として旅順攻略に参加し、勇名を新たにした。
日露戦争・黒溝台会戦 — 「東洋一の用兵家」
明治37年(1904年)からの日露戦争では、第八師団長として満州に出征。明治38年(1905年)1月の黒溝台会戦は、ロシア軍の冬季大反攻に対し、奥保鞏第二軍司令官の麾下で立見の第八師団が薄氷を踏む防戦を強いられた一戦である。
立見の采配は冷静で、寡兵で大軍を支えきった。野津道貫元帥はこれを評して「東洋一の用兵家」と称した。同年3月の奉天会戦でも第八師団は中央で奮戦。日露戦争後、立見は男爵を授爵、陸軍大将に進む。
明治40年3月、東京で病没
明治40年(1907年)3月6日、東京で病没。享年62。日露戦争の激戦で受けた心身の負荷が、戦後わずか2年で立見の生命を奪った。葬儀は陸軍大将の格式で営まれ、青山霊園 1種イ1号5側に葬られた。
逸話・エピソード
「桑名の鬼」と呼ばれた剣の腕
立見は雷神隊長として戦場に立つ前、桑名藩の剣術師範代を務めるほどの神道無念流の遣い手であった。北越戦線で敵兵を白兵で斬り伏せる場面が複数の同盟軍記録に残り、官軍側からも「桑名の鬼」「立見の白刃」と恐れられたという。明治の陸軍大将で実戦で白兵を振るった経験を持つのはごく少数で、立見はその数少ない一人である。
黒溝台での無言の采配
黒溝台会戦で第八師団は寡兵で大軍の攻撃を受け、参謀が「兵を退きましょうか」と進言した際、立見はじっと地図を見つめたまま「退かぬ」とだけ答えたと伝わる。総攻撃を凌ぎ切った後、参謀が「なぜあのとき退かぬと決めたのですか」と問うと、「退いたら背後の友軍が崩れる。それだけだ」と短く答えたという。野津元帥の「東洋一の用兵家」評は、こうした実戦での静かな決断力に対するものだった。
青山霊園に眠る
立見尚文の墓は、青山霊園 1種イ1号5側にある。同じ「1種イ1号」の区画には、大久保利通(2号15側)・池田勇人(26側)・斎藤茂吉などが眠る大区画で、近代日本を作った人々の中心エリアである。
桑名藩士として戊辰戦争で官軍と戦った23歳の青年が、40年後に陸軍大将として日露戦争を勝ち抜き、近代日本の中央エリアに眠る — その軌跡は、明治国家が朝敵側の人材を受け入れ、最大限に活用した近代史の典型を示している。会津・桑名・長岡 — 戊辰戦争で敗れた藩の青年たちが、後の日本陸軍を支えた事実は、立見尚文の墓所が今も伝えている。




