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黒溝台会戦


ロシア軍の冬季大反攻に対し、立見尚文の第八師団が中央で薄氷を踏む防戦に成功。野津道貫元帥は立見を「東洋一の用兵家」と讃えた。

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ロシア軍の冬季大反攻 — 立見尚文、薄氷を踏む防戦

黒溝台会戦は、明治 38 年(1905 年)1 月 25-29 日、満洲・遼陽北西の黒溝台(現・中国遼寧省)で行われた日露戦争屈指の防御戦である。

ロシア満洲軍は、旅順陥落(1 月 2 日)で第三軍が北上合流する前に日本軍左翼を打ち破ろうと、グリッペンベルク将軍率いる第二軍を主力とする冬季大反攻を仕掛けた。これに対し、最前線の左翼で薄氷を踏む防戦を強いられたのが、立見尚文中将率いる秋山支隊・第八師団であった。

寡兵で大軍を支えきった立見の采配を、満洲軍総司令官・大山巌の左腕として現地に赴いた野津道貫(第 4 軍司令官、後の元帥)は「東洋一の用兵家」と讃えた。表立った大勝利の華やかさはないが、日露戦争の戦局を保つ上で決定的な防御戦であった。

背景 — 旅順陥落で焦るロシア軍

明治 37 年(1904 年)末から翌年初頭にかけて、満洲の日露両軍は冬営に入っていた。8 月の遼陽会戦、10 月の沙河会戦の後、両軍は沙河の南北に対峙したまま冬季を迎え、塹壕戦の様相を呈していた。

ロシア満洲軍総司令官アレクセイ・クロパトキン大将は、1 月 2 日の旅順陥落を知り、深刻な焦燥に駆られる。旅順で拘束されていた日本第三軍(乃木希典)が満洲に北上し、満洲軍に合流すれば日本軍の兵力は急増する。それまでに先制攻撃で日本軍の弱い左翼(西側)を撃破し、戦局を転換する必要があった。

クロパトキンは第二軍司令官オスカル・グリッペンベルク将軍に攻勢を命じ、約 9 万 6,000 名の兵力で日本軍左翼に投入することを決定。攻撃正面となる黒溝台付近を守備していたのは、秋山好古少将率いる秋山支隊(騎兵第一旅団基幹、約 8,000 名)に過ぎず、戦力差は 10 倍以上であった。

1 月 25 日 — ロシア軍の攻撃開始

明治 38 年(1905 年)1 月 25 日、ロシア第二軍が氷点下 20-30 度の極寒の中、黒溝台正面の秋山支隊に攻撃を開始した。秋山支隊は騎兵旅団を歩兵化し、機関銃と塹壕で防御陣を組む、当時としては異例の戦法で迎え撃った。

本来「機動力こそ生命」とされる騎兵を下馬させ、塹壕で守備に徹する発想は世界の軍事常識からすると異端である。だが、寡兵で世界最強のコサック騎兵を含むロシア軍に対抗するために、秋山が選んだのはこの「踏みとどまる騎兵」であった。

秋山支隊は数倍の敵兵を相手に持ちこたえたものの、戦況は刻一刻と悪化。本部に再三救援要請が送られた。

1 月 26-27 日 — 立見尚文と第八師団の到着

満洲軍総司令官・大山巌、総参謀長・児玉源太郎は、状況の深刻さを把握し、戦線各所から増援を急派した。投入されたのが、第二軍(司令官・奥保鞏)麾下の第八師団(師団長・立見尚文中将)である。

立見はその年 59 歳。戊辰戦争で雷神隊を率いて北越戦線を席巻した桑名藩士出身の老将で、後に陸軍に取り立てられ、日清戦争でも戦功を上げていた。彼の冷静沈着な指揮は、当時の日本陸軍内でも特異な評価を受けていた。

第八師団は、雪と氷の戦場を強行軍で黒溝台方面に急進。1 月 27 日には最前線に展開し、ロシア軍の側面包囲を阻止する防戦に入る。立見の采配の特徴は、無理な反撃をせず、地形と防御陣地を最大限活用して敵を消耗させること、そして要所への予備兵力の機を逃さない投入であった。

1 月 28-29 日 — ロシア軍の攻撃終焉

立見の防戦と、各方面からの増援(第二軍主力・近衛師団・砲兵部隊)の到着により、ロシア第二軍の攻撃は次第に勢いを失った。クロパトキン総司令官は、グリッペンベルクの独断的な攻勢に同意しておらず、追加投入を渋った。結果として、ロシア第二軍は包囲も突破も果たせず、1 月 29 日に攻撃中止を決定、原陣地に撤退した。

両軍の損害は深刻だった。日本側戦死約 9,300 名・負傷約 9,000 名(合計約 1 万 9,000 名)、ロシア側戦死傷約 1 万 2,000 名と推定される。会戦は局地的な防御戦に過ぎなかったが、犠牲は重い。

クロパトキンは戦後、グリッペンベルクとの指揮系統の混乱を、敗因として記録に残している。

戦果と歴史的影響

  1. 第三軍北上までの時間稼ぎに成功

ロシア軍の冬季大反攻を防いだことで、旅順から第三軍(乃木希典)が満洲軍と合流するまでの時間を稼ぐことができた。これが 3 月の奉天会戦での日本軍の包囲攻勢につながる。

  1. 「東洋一の用兵家」 — 立見尚文の評価確立

立見の冷静な防戦は満洲軍内で広く称えられた。野津道貫(第 4 軍司令官)が「東洋一の用兵家」と讃えたとされる。戊辰戦争で朝敵となった桑名藩士が、40 年後に日本陸軍の中核として国家を支えた構図が、当時の日本人に深い感慨を呼んだ。

  1. 騎兵の歩兵化という戦術思想の実証

秋山好古が黒溝台で実践した「騎兵を下馬させ機関銃と塹壕で守る」発想は、当時の世界軍事常識からは異端だったが、結果として有効だった。日露戦争全体を通じての秋山騎兵旅団の運用は、後の世界の軍事関係者から「諸兵連合戦闘」「機械化部隊」の先駆として研究対象となった。

  1. 冬季戦・塹壕戦の限界の露呈

氷点下 20-30 度の極寒下での攻撃は、両軍とも凍傷・凍死者を大量に出した。塹壕で待ち構える防御側の優位、機関銃の威力 — 後の第一次世界大戦で繰り返される現象が、黒溝台でも明確に現れている。

関連する偉人とその役割

立見 尚文(第八師団長 / 陸軍中将)

伊勢国桑名藩士・町田家の三男として弘化 2 年(1845 年)に生まれる。戊辰戦争では桑名藩・雷神隊を率いて北越戦線を席巻、朝日山争奪戦で官軍の時山直八(山県有朋の腹心)を狙撃で討ち取った戦歴を持つ。

維新後、新生陸軍に取り立てられ、西南戦争日清戦争を経て第八師団長として日露戦争に出征。黒溝台会戦で寡兵を率いて大軍を支えきり、「東洋一の用兵家」と讃えられた。同年 3 月の奉天会戦でも中央で奮戦。戦後、陸軍大将に進み、男爵を授爵。明治 40 年(1907 年)、東京で病没。本霊園 1種イ1号5側に眠る。

秋山 好古(秋山支隊長 / 陸軍少将)

愛媛・松山藩の貧しい下級武士の家に生まれる。陸軍士官学校・フランスのサンシール陸軍士官学校・ソミュール騎兵学校で学んだ「日本騎兵の父」。日露戦争では騎兵第一旅団を率いる秋山支隊長として、世界最強のコサック騎兵を相手に「下馬騎兵 + 機関銃 + 塹壕」の異端戦法で持ちこたえた。

黒溝台会戦の最前線で、最初に攻撃を受けて防戦を担い、立見師団の到着まで陣地を保持し続けた。弟は連合艦隊作戦参謀の秋山真之。司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年)の主人公として広く知られる。本霊園 1種イ19号2側に眠る。

野津 道貫(第 4 軍司令官 / 陸軍大将、後の元帥)

薩摩出身、戊辰戦争・西南戦争を経て陸軍の最高位に至った薩摩閥の典型的軍人。日露戦争では第 4 軍司令官として満洲に出征。黒溝台会戦時には全戦線の左翼担当として状況を把握、立見の防戦を「東洋一の用兵家」と讃えた逸話で知られる。

戦後の明治 39 年(1906 年)、大山巌・山県有朋・小松宮彰仁親王とともに陸軍元帥に親任。侯爵に叙された。明治 41 年(1908 年)、東京で病没。本霊園 1種イ1号26側に眠る。

関連する作品

司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年連載)では、黒溝台会戦は中盤の重要場面として描かれ、秋山好古の「下馬騎兵 + 機関銃」戦法と立見尚文の防戦が中心となる。NHK スペシャルドラマ版(2009-2011 年)では、阿部寛が秋山好古を演じ、雪の戦場の場面が大規模ロケで再現された。

吉村昭『海の史劇』『日露戦争史』など、日露戦争を扱った記録文学・歴史書でも黒溝台会戦は奉天会戦の前段として重視される。

参考資料

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