フランシス・ブリンクリー (1841-1912)の肖像
フランシス・ブリンクリーの肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

フランシス・ブリンクリー

ふらんしす・ぶりんくりー

Francis Brinkley

アイルランド出身の英国砲兵将校から日本の英字紙 Japan Weekly Mail 主筆となり、河鍋暁斎に師事して浮世絵を蒐集した「弁慶」の異名を持つ親日家。

生没年
出身地
アイルランド・ミース郡
死没地
東京
時代
明治
役職
ジャーナリスト
タグ
お雇い外国人 / Japan Weekly Mail / ロンドン・タイムズ / 浮世絵蒐集 / アイルランド

日本最大の英字紙を率いた親日家 ——「弁慶」と呼ばれた浮世絵蒐集者

フランシス・ブリンクリー(Francis Brinkley、1841-1912)は、アイルランド出身の英国砲兵将校として慶応 3 年(1867 年)に来日し、明治政府の工部省教師・海軍砲術教師を経て、明治 14 年(1881 年)に英字紙『Japan Weekly Mail』を買収・主筆として明治日本の英文ジャーナリズムの頂点に立った人物である。

同時にロンドン・タイムズ紙の東京特派員を兼任し、明治期日本の情報を欧米に発信する最重要人物だった。日露戦争期(明治 37-38 年/1904-05 年)、欧米の世論を日本側に有利に導いたブリンクリーの記事は、ポーツマス条約の国際的支援基盤の形成に深く関与した。

明治日本の文化への愛着も深く、河鍋暁斎(かわなべ きょうさい、幕末-明治の絵師)に師事して日本画を学び、北斎・歌麿らの浮世絵を大規模に蒐集した。骨董商の間で「弁慶」(大柄なので)の異名で呼ばれたほどの蒐集家だった。

明治 11 年(1878 年)、当時の英国法で禁じられていた外国人と日本人の婚姻を、英国法廷で訴訟して認めさせ、日本人女性・田中安子と結婚した。明治 29 年(1896 年)、F.W.イーストレイクと共著で『日本語英語辞典』(Brinkley’s Japanese-English Dictionary)を刊行。明治日本の英語教育・日本研究の基礎文献を残した。

明治 45 年(1912 年)10 月 22 日、東京で死去。享年 70。葬儀には日本政府高官・外国公使が列席し、当時の英字紙は「明治日本の最も影響力ある外国人ジャーナリストの逝去」と報じた。

アイルランド・ミース郡の貴族家系

天保 12 年(1841 年)11 月 9 日(西暦 12 月 30 日)、アイルランド・ミース郡に生まれる。家系は「アイルランドの名家(distinguished aristocratic family)」とされる。アイルランドが英国支配下にあった時代の英国系アイルランド貴族の出身である。

英国陸軍砲兵将校(中尉)として任官、香港駐屯を経て慶応 3 年(1867 年)に日本に派遣された。年齢 26 歳、英国軍人として極東の任地に着いたところから、ブリンクリーの長い日本との関係が始まる。

来日直後に幕末動乱を直接目撃。慶応 3 年 11 月の大政奉還、明治元年(1868 年)1 月の鳥羽伏見の戦い、4 月の江戸開城 — 26 歳の英国砲兵将校が、横浜の英国人居留地から東京の幕末政変を見届けた。

工部省教師、海軍砲術教師

明治政府の発足後、ブリンクリーは英国軍人としての専門技能を生かし、海軍砲術学校(海軍兵学寮)で砲術を教えた。「お雇い外国人」のはしりの一人として、新生日本海軍の砲術士官養成に関わった。

その後、工部省工部大学校(現・東京大学工学部の前身)で数学を教えた。明治初期の工学教育の基盤を作る役割を担った教師の一人だった。

『Japan Weekly Mail』買収(明治 14 年) ——明治日本最大の英字紙

明治 14 年(1881 年)、ブリンクリーは英字紙『Japan Weekly Mail』(明治 3 年/1870 年創刊)を買収し、主筆として運営を引き継いだ。

『Japan Weekly Mail』は当時の横浜・東京の英語居住者社会の中心メディアで、東アジアにおける英文ジャーナリズムの主要紙の一つだった。ブリンクリーは主筆として明治日本の政治・社会・文化を欧米向けに解説する記事を、ほぼ独力で執筆し続けた。

同時にロンドン・タイムズ紙の東京特派員も兼任。世界最大の影響力を持つ英字日刊紙への寄稿で、明治日本の情報が欧米諸国の指導層に直接届く経路を作った。

ブリンクリーの記事は、欧米中心の世界観の中で「東洋の新興国・日本」を理解可能な形で紹介する役割を果たした。明治日本の対外イメージ形成において、ブリンクリーは最も影響力のあるジャーナリストの一人だった。

河鍋暁斎に師事、浮世絵蒐集 ——「弁慶」の異名

明治 19 年(1886 年)11 月、ブリンクリーは絵師・河鍋暁斎(1831-1889)に師事し、日本画を学び始めた。河鍋暁斎は浮世絵・狩野派を融合した独特の画風で知られる絵師で、外国人弟子をとった希少な日本画家の一人。ブリンクリーは数年間師事し、墨絵・浮世絵の技法を学んだ。

同時に北斎・歌麿・写楽・広重ら浮世絵の大規模な蒐集を始める。骨董商の間で「弁慶」(べんけい)の異名で呼ばれた。「ブリンクリーが来ると、武蔵坊弁慶のように店中の浮世絵をかっさらっていく」という意味の渾名で、明治期日本の浮世絵市場における大コレクターとして知られた。

ブリンクリーの浮世絵コレクションは、後にボストン美術館・大英博物館などに分散して収蔵され、欧米における浮世絵研究の重要な資料となっている。明治日本の浮世絵が欧米で評価される基盤を、現役のジャーナリストが個人として作った珍しい事例である。

明治 11 年 ——英国法廷で勝ち取った日本人妻との結婚

明治 11 年(1878 年)、ブリンクリーは日本人女性・田中安子と結婚した。当時の英国法では英国国籍の人と外国籍の人の婚姻には制約があり、特に英国軍人と日本人女性の婚姻は実質的に禁止されていた。

ブリンクリーは英国法廷に訴訟を起こし、英国国籍者と日本国籍者の婚姻が認められるべきであると主張した。結果として裁判で勝訴し、田中安子との正式結婚を認めさせた。当時の英国-日本関係における国際法上の前例として知られる。

田中安子はブリンクリーの生涯の伴侶となり、ブリンクリーの日本理解・日本社会への深い関与の家族基盤を作った。二人の間には複数の子があり、ブリンクリー家は日英混血家系として明治・大正期の在日外国人社会に位置を占めた。

『Brinkley’s Japanese-English Dictionary』(明治 29 年)

明治 29 年(1896 年)、ブリンクリーは F.W.イーストレイク(青山霊園に眠る、英語教育者)と共著で『日本語英語辞典』(Brinkley’s Japanese-English Dictionary)を刊行した。

明治期日本の英語教育・日本研究のための基礎文献として、長く使われた辞典である。日本人と英語話者の双方向の学習に対応する構成で、当時の語学辞典としては画期的な内容だった。同時代の和英辞典の代表的作品の一つとして、英語辞書史に名を残している。

10 月 22 日 ——明治の終わりと共に

明治 45 年(1912 年)7 月 30 日、明治天皇崩御。元号が大正に改元される。ブリンクリーは慶応 3 年(1867 年)に来日して以来 45 年間、明治日本の歴史を最も近くで見続けた外国人の一人だった。

同年 10 月 22 日、東京で死去。享年 70。明治の終焉から 3 ヶ月足らずの逝去で、明治日本と運命を共にしたかのような時期だった。

葬儀には日本政府高官・外国公使が列席し、明治日本の「最も影響力ある外国人ジャーナリスト」「最大の浮世絵蒐集家」「日本研究の基礎を作った教師」の死を悼んだ。墓所は青山霊園に納められ、明治期日本のお雇い外国人たちが集まる霊園内に位置することとなった。

逸話・エピソード

「弁慶」 ——浮世絵商を圧倒した大コレクター

ブリンクリーが浮世絵商の間で「弁慶」と呼ばれた逸話は、明治期日本の骨董市場で広く知られた。「ブリンクリー先生が現れると、店中の浮世絵を持って行ってしまう」 — まるで武蔵坊弁慶が薙刀を振るって場を圧倒する様子に重ねた呼称だった。

ブリンクリーの蒐集対象は北斎・歌麿・写楽・広重ら、現代の美術市場でも最高峰とされる絵師たちの作品だった。当時の日本では浮世絵は美術品としては低く評価されており、明治政府の文明開化路線でも保護対象に含まれなかった。ブリンクリーら外国人蒐集家が大量に買い付けた背景には、日本人自身が浮世絵の価値を低く見ていた時代背景があった。

ブリンクリーのコレクションは没後、欧米の美術館に分散して収蔵され、現在の浮世絵研究の基礎資料となっている。「弁慶」の名で日本の絵師たちの作品を救った外国人として、現代の浮世絵研究者たちに敬意を込めて記憶されている。

日露戦争期のロンドン・タイムズ電報

明治 37-38 年(1904-05 年)の日露戦争期、ブリンクリーはロンドン・タイムズ東京特派員として、開戦から終戦・ポーツマス条約まで連日電報を打ち続けた。当時のタイムズ紙は世界最大の影響力を持つ英字日刊紙で、ブリンクリーの記事は欧米諸国の指導層に直接届いた。

ブリンクリーの記事は明治日本の戦争遂行を欧米向けに合理的に説明し、ロシア帝国の戦争動機を批判的に分析する姿勢で一貫していた。これが欧米世論を日本側に有利に動かす一因となり、ポーツマス条約(米国セオドア・ルーズベルト大統領の仲介)成立の国際世論基盤の形成に深く関与した。

日露戦争の英文宣伝戦は、ブリンクリーがほぼ独力で勝った」とは、後年の在京英米人ジャーナリストの評である。明治日本の対外宣伝戦の最大功労者として、ブリンクリーの名は今も日露戦争史で参照され続けている。

河鍋暁斎との師弟関係

明治 19 年(1886 年)11 月、ブリンクリー(45 歳)が河鍋暁斎(55 歳)に師事を申し入れたとき、暁斎は外国人弟子をとることに当初難色を示したと伝わる。日本画は禅の精神と一体であり、言語と文化の障壁が大きすぎるという理由だった。

しかしブリンクリーの真摯な姿勢と日本文化への深い理解を見て、暁斎は弟子入りを許した。週に一回、暁斎の画室でブリンクリーが墨絵・浮世絵の技法を学ぶ師弟関係が、暁斎の死(明治 22 年/1889 年)まで続いた。

暁斎の死後、ブリンクリーは暁斎の弟子団の中で唯一の外国人として、暁斎の遺族・他の弟子たちとの交友を保ち続けた。明治期日本の絵画界で唯一の英国系アイルランド人の弟子として、ブリンクリーは日本画の伝統の中に位置を占めることになった。

青山霊園に眠る

フランシス・ブリンクリーの墓は青山霊園にある。同じ青山霊園には、お雇い外国人として明治日本の各分野に貢献した同時代人 — グイド・フルベッキ(オランダ系米国人、英語・神学・法律教師)、エドアルド・キヨッソーネ(イタリア人、銅版画家、紙幣・切手のデザイナー)、F.W.イーストレイク(英米系、英語教育者、ブリンクリーの辞書共著者)、ゴットフリート・ワグネル(ドイツ人、化学・窯業技師) — が並んで眠る。

明治日本に骨を埋めたお雇い外国人たちの霊園内の一角は、近代日本が西洋から学んだ知の集積場所でもある。ブリンクリーは「英文ジャーナリズム」「日本語英語辞典」「浮世絵蒐集」の三つで、明治日本の対外イメージと日本研究の基礎を作った人物として、ここに眠っている。

墓所の位置

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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