海江田 信義
かいえだ のぶよし
Kaieda Nobuyoshi
薩摩藩士。安政の大獄期に活動、桜田門外の変(1860)に薩摩側から関与、戊辰戦争で参謀、明治政府で元老院議官・貴族院議員・男爵。
桜田門外の変に関与した薩摩藩士 — 元老院議官・男爵
海江田信義は、幕末薩摩藩の 尊王攘夷派として、安政の大獄期(1858-59 年)に 大老・井伊直弼を倒す計画に深く関与した志士である。万延元年(1860 年)3 月 3 日の 桜田門外の変(井伊直弼暗殺)では、薩摩藩側の 唯一の実行参加者・有村次左衛門(井伊の首を取った薩摩浪士、現場で重傷死)を 指揮支援したと伝わる。
戊辰戦争(1868-69 年)では薩摩藩兵の参謀として、会津若松城攻防戦などに参加。明治政府では 元老院議官・貴族院議員として国政に関与し、男爵に叙された。
西郷隆盛・大久保利通・川路利良ら 下加治屋町郷中の盟友群とはやや距離があり、もう少し 過激な尊攘派の系譜に属する薩摩志士であった。
薩摩の下級武士から、安政の大獄期へ
天保 3 年(1832 年)3 月 8 日(陽暦 4 月 8 日)、薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)に薩摩藩士・有村兼善の三男として生まれる。本姓は 有村。有村次左衛門(桜田門外の変で井伊直弼の首を取った薩摩浪士)とは 兄弟にあたる。
幕末、島津斉彬(薩摩藩主、明治維新の遠望を示した名君)の信頼を得て、京都・江戸を往復して情報収集に当たる。安政の大獄(1858-59 年、井伊直弼による尊攘派弾圧)では、斉彬の意を継ぐ薩摩志士の一人として、井伊政権打倒の計画に関わった。
万延元年 3 月 3 日 — 桜田門外の変
万延元年(1860 年)3 月 3 日朝、水戸藩浪士 17 名・薩摩浪士 1 名(有村次左衛門)が江戸城桜田門外で 井伊直弼を襲撃、その首を取った。桜田門外の変である。
海江田(当時はまだ有村姓)は、薩摩側の 指揮・後援役として深く関与したとされる。実行犯の 有村次左衛門(海江田の弟)は現場で重傷を負い、その後切腹。海江田自身は 薩摩藩内に潜伏し、幕府の追及を逃れた。
桜田門外の変は 幕府権威の決定的失墜をもたらし、その後の幕末動乱の本格化を引き起こした 歴史的事件である。
戊辰戦争 — 参謀として
慶応 3 年(1867 年)の 大政奉還、慶応 4 年/明治元年(1868 年)の 戊辰戦争で、海江田は 薩摩藩兵の参謀として参戦。鳥羽伏見の戦い・東山道軍参謀(伊地知正治と並ぶ)・会津若松城攻防戦などで指揮にあたった。
明治元年(1868 年)、姓を 「有村」から「海江田」に改めた。これは桜田門外の変の 有村兄弟としての過去から、新政府の官僚としての新たな身分への転換を意味した。
明治政府 — 元老院議官・貴族院議員
明治新政府では 大蔵省・内務省などを経て、元老院議官(明治 8 年/1875 年設立の立法諮問機関)に就任。元老院は 大日本帝国憲法(明治 22 年/1889 年公布)制定に向けた憲法草案の検討機関で、海江田は 薩摩出身の保守派議官として活動した。
明治 17 年(1884 年)、男爵に叙される。明治 23 年(1890 年)、貴族院議員(華族議員)として議会開設。明治 28 年(1895 年)、枢密顧問官。
幕末の過激派志士から、明治国家の 元老院議官・貴族院議員へという軌跡は、「テロから議会政治へ」という近代日本の政治史を最も端的に体現する。
明治 39 年 10 月 27 日、東京で逝去
明治 39 年(1906 年)10 月 27 日、東京で死去。享年 74。桜田門外の変から 46 年、戊辰戦争から 38 年を生き、明治の終わり頃まで存命だった数少ない幕末の生き残りの一人となった。
親族の著名人
- 兄(または弟)・有村 次左衛門 — 薩摩浪士、桜田門外の変で井伊直弼を斬殺、現場で重傷死
- 兄・有村 雄助 — 桜田門外の変関与、後に脱藩
- 子・海江田 信常 — 男爵を襲爵
- 海江田家・有村家は薩摩出身の維新功臣として明治・大正期に複数の人材を送った
逸話・エピソード
弟の首級を抱きしめた夜
万延元年(1860 年)3 月 3 日、桜田門外で井伊直弼を斬殺した直後に重傷を負った弟・有村次左衛門は、近隣の薩摩藩邸辻番屋で切腹した。報せを受けた海江田(当時有村姓)は人目を忍んで弟の遺体に対面し、一晩中遺体に寄り添って涙したと、同郷の同志の手記に残る。「弟は俺の代わりに死んだ。俺が生きている限り、弟の意志は俺の中にある」と語ったとされ、明治新政府で官僚に転じた後も、自宅の床の間には弟・次左衛門の位牌を生涯絶やさなかった。
大久保利通と反りが合わなかった硬骨漢
明治新政府内で海江田は、同郷の大久保利通とは政策論で度々衝突した。大久保が現実主義的・漸進的な国家建設を志向したのに対し、海江田は幕末以来の尊攘急進派の気質を引きずり、保守的な皇室中心主義に固執した。「大久保はもはや薩摩の人間ではない」と陰口を叩いた逸話が伝わり、これが新政府内で海江田が中央枢要から徐々に遠ざけられる遠因となった。それでも元老院議官として憲法草案検討に最後まで関与し、保守派の論客として一目置かれた。
「有村」を「海江田」に改めた理由
桜田門外の変で井伊直弼を斬殺した実行犯・有村次左衛門と兄弟であることは、明治政府の高官として活動する上で複雑な意味を持った。明治元年(1868 年)、有村姓を「海江田」に改めたのは、幕府を倒した実行者の血族として政府高官に就くことへの世間の目を意識した結果だったと、同時代人は記録している。新姓「海江田」は薩摩の海に由来する優雅な名で、テロリストの兄弟から明治国家の重臣への変身を、姓の変更で象徴したのである。
青山霊園に眠る
海江田信義の墓は、青山霊園 1種ロ12号9側。同じ「1種ロ12号」の区画には、加藤友三郎(1・6 側、海軍大将・首相、既登録)、小村寿太郎(同 1・6 側、外相、既登録)、田中久重(31 側、東芝源流の発明家、既登録)、中村吉右衛門(初代)(7-10 側、歌舞伎、本日既登録)などが眠る。
桜田門外の変 — 江戸幕府を倒すきっかけを作った男が、明治国家を作った政治家・軍人・実業家・歌舞伎役者と同じ青山霊園区画で眠る配置は、幕末から昭和までの 100 年の日本史の縮図そのものとなっている。
桜田門外で井伊直弼を斬った弟・有村次左衛門の墓所は薩摩(鹿児島)にあり、海江田は東京の青山霊園で眠る。兄弟が別の地に眠る配置は、桜田門外の変の薩摩志士の運命を地形に刻んでいる。




