森 恪
もり つとむ
Mori Kaku
政友会の謀将。三井物産の中国通商人から政界入りし、田中義一内閣の外務政務次官として山東出兵・東方会議を主導した昭和初期の対中政策のキーマン。
政友会の謀将 — 昭和初期の対中政策を動かした男
森恪は、三井物産の中国通商人から政界入りし、立憲政友会の中核として昭和初期の対中政策を主導した政治家である。「政友会の謀将」と呼ばれ、田中義一を総理に押し上げ、犬養毅・鈴木喜三郎を継いで政友会総裁にしようと暗躍した党人派の典型だった。
明治16年(1883年)、大阪に生まれる(戸籍上は1883年だが実際は1882年12月生)。東京高等商業学校(現・一橋大学)を出て三井物産に入社、上海・福州・天津に長く駐在して中国の商業・政情に精通した。明治末から政友会の対中政策ブレーンとして頭角を現し、大正9年(1920年)、衆議院議員初当選。
田中義一内閣の外務政務次官として、昭和2年(1927年)の山東出兵、東方会議を主導。「東洋のセシル・ローズ」と称された強硬な大陸政策の立案者として知られた。昭和7年(1932年)12月、政界の中枢で次のステージを目指す矢先に、49歳の若さで急逝した。
三井物産の中国通商人
明治16年(1883年)2月28日(戸籍)、大阪府(本籍は香川県)で生まれる。父・森作太郎は実業家。東京高等商業学校(現・一橋大学)を明治34年(1901年)に卒業、三井物産に入社した。
入社後すぐに上海支店に派遣され、福州・天津と中国各地の支店を渡り歩く。日露戦争前後の中国大陸で、清朝末期から辛亥革命へと激変する商業情勢を肌で知る三井物産の中国通として育った。
政友会への転身 — 「上海帰り」の代議士
大正8年(1919年)、三井物産を退社し政界入りを決意。翌大正9年(1920年)、香川県第3区から衆議院議員に初当選する。「上海帰りの代議士」として、立憲政友会の対中政策ブレーンの位置を確立した。
大正末から昭和初期にかけて、政友会内で田中義一(陸軍大将・第18代総裁)を支える党人派として急速に存在感を増す。「派閥の謀将」「策士」と呼ばれ、田中の組閣・予算・選挙対策を裏で動かす実務型政治家として知られた。
田中義一内閣 — 山東出兵と東方会議
昭和2年(1927年)、田中義一内閣の外務政務次官に就任。同年6-7月、外相・田中義一の名のもとに「東方会議」を主宰した。東方会議は外務省・陸海軍・関東軍・在外公館の主要関係者を集めた対中政策の総合会議で、満蒙の地位を国家戦略の中核に位置づける方針を定めた。
同じ年に行われた山東出兵(国民革命軍の北伐に対する日本軍の山東半島派遣)も、森が田中を強く後押しして実現したものとされる。「政友会の謀将」が、外務政務次官として外交を実質指揮した珍しい構図だった。
「田中義一・森恪」の組み合わせは、後に「満州事変・関東軍の独走」の遠因として批判される対象になる。森自身は満州事変(昭和6年9月)を歓迎し、犬養毅内閣下でも対中強硬論を主張し続けた。
昭和7年12月、急逝
昭和7年(1932年)5月15日、犬養毅首相が海軍青年将校に襲撃され死亡(五・一五事件)。後継首班に推されたのは森恪だったとも噂されたが、政友会総裁は鈴木喜三郎に決まり、森自身は党を支える幹事長格の役割に留まった。
同年12月11日、東京で急逝。享年49(戸籍上は50)。死因は不明な点も多く、過労説・酒害説などが伝わる。「東洋のセシル・ローズ」の急逝は、政友会の内部抗争を激化させ、結果的に翌昭和8年の政友会分裂につながった。
逸話・エピソード
「東洋のセシル・ローズ」 — 中国の隅々まで知る男
森は三井物産時代、上海・福州・天津と中国各地の支店を渡り歩いた結果、長江流域から華北・華南までの商業ネットワーク・地方軍閥・現地有力商人と直接の人脈を持っていた。「中国全土の名士と一席設けられるのは森恪しかいない」と言われ、当時の日本政界では中国情勢に関する一級の情報源として頭抜けた存在だった。
「東洋のセシル・ローズ」(英国の南アフリカ植民地経営者)の異名は、その大陸への執着と人脈の太さに由来する。代議士になってからも上海・北京の動向は森を経由して政友会幹部に流れたとされ、対中政策に関わる外務官僚・軍人がまず森に意見を聞きにくるという、政党人としては異例の位置を占めていた。
「あの男が生きていたら」 — 政界が惜しんだ 49 歳の早世
昭和 7 年(1932 年)12 月、森が急逝した時、政友会内部のみならず軍部・財界からも惜しむ声が相次いだ。床次竹二郎・鈴木喜三郎ら旧来の党人派が高齢化する中、49 歳の働き盛りで党の運営実務と対中政策を一手に握っていた森の死は、政友会の組織的支柱を一本抜くに等しかった。
事実、森の死後、政友会は鳩山一郎派と床次派の内紛が表面化し、昭和 8 年(1933 年)に分裂。「あの男が生きていたら、満州事変後の政党政治はもう少し延命できたかもしれない」 — 戦後の政治史家がしばしば口にする「もしも」の筆頭格となった人物である。
青山霊園に眠る
森恪の墓は、青山霊園 1種ロ8号1・14側にある。同じ「1種ロ8号」の区画には、加藤高明・浜口雄幸・井上準之助・犬養毅・頭山満・牧野伸顕・松平恒雄・大達茂雄、そして上野英三郎・忠犬ハチ公、山口多聞 — 戦前日本の政治・経済・軍事の中枢を担った人々が眠る。
政友会の謀将として首相未満で世を去った政治家が、自分が後押しした首相たち(加藤高明・浜口雄幸・犬養毅)と同じ区画に並んで眠る — 昭和初期の政界がどう動いていたかを、墓所の地図がそのまま示している。





